織田信長 書状

織田信長 書状 (東寺に与えた禁制) の紹介

特徴

永禄11(1568)年9月26日、織田信長は足利義昭を奉じて入洛し、東寺を本陣とするが、これに先立ち東寺に与えた禁制である。

 信長入洛の報に接して、京都の町中は騒然となった。『言継卿記』同年9月20日条には、「織田出張、日々洛中洛外騒動也」「騒動以外及暁天也」と記されている。信長の上洛を促したのは「古今無双の名将」と称えた綸旨を発した正親町天皇であるが、9月14日には「京都の儀、諸勢乱逆無きよう下知を加えよ」と、信長に手勢の乱暴を警戒させた上で、21日からは3日間、臨時に天下安全の祈祷を行わせている。

 東寺としても境内での軍勢の暴行を恐れて、この禁制の下付を請うたのであった。奉行や側近の文書ではなく、直状の形をとっている。官職名の「弾正忠」はそれまでの「尾張守」に替えて、この8月から名乗ったものである。朱印は単郭の楕円形で、印文は武力による天下統一を標榜した「天下布武」である。

 信長は、義昭を将軍に就けて実権を握るが、やがて不和となり天正元(1573)年、義昭を京都から追放する。ここに室町幕府は滅亡する。さらに越前の朝倉義景・近江の浅井長政を滅ぼし、甲斐の武田勝頼を長篠の合戦に破る。同4年、安土城を築いて天下制覇の拠点としたが、同10年、明智光秀の反乱にあい、天下統一を目前にして倒れる。

作製された時期

1568年9月

所蔵

京都府立京都学・歴彩館 所蔵​​​​​​​

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